サイト主の教科書学習遍歴

小学校

小学生高学年になると学習塾に通いはじめました。

家が商売(八百屋)をやっていて忙しかったので、保育園代わりに、
ピアノや習字やそろばんなどを習わされていました(*注1)ので、
習う対象が「学校の勉強の補修」になっただけ、ということもあり、
あまり疑問や拒否反応はありませんでした。

その塾は最終的には私立中学への進学を目指す塾だったらしく、
選抜クラスに選ばれてしまったものの、母子家庭の自分にとって、
中学受験は「自分には無縁な世界」でした。

当然、算数は鶴亀算や水道算などもやらされ、パズルやゲーム感覚で
楽しんでいました。八百屋の店番で計算は慣れていましたし。逆に
社会や国語は全く好きになれず、国旗や首都名など何一つ覚えられない
劣等生でした。試験官の先生が「イスラマバード」を思い出させようと、
ヒントのつもりで鳥のマネをしてくれましたが、当然、何の甲斐も
ありません。

小学校ではそろそろ先生が、生徒に「教え合うこと」を学ばせるように
なってきており、朝の小テストを、生徒自身にガリ版刷りで作らせる、
なんてことをしていました。算数の難問小テストをバンバン作って
ちょっと迷惑な生徒だったかもしれません(笑)。

6年生の夏頃でしょうか、先生から「国立小学校を受けてみたら?」と
言われ、突然、中学受験をすることに。申し込みは姉がやってくれ
ましたが、会場までは一人で行き(週末、池袋のデパートに子どもたち
だけで行くという冒険が当時、流行っていて、公立小学生でも、
交通機関を使うことには慣れていました。一度、三越デパートの
エレベーターが故障し、中に閉じ込められた時には焦りました。
数十分後、外に出ることができ、食堂でいただいた水がとても
美味しかったのが忘れられません)、なかなか良い経験をしました。
まあ、得意科目が算数と理科(世界文化社から「家庭画報」と
「科学の図鑑」が毎月届いていたので、理科の素養はありました)
だけなので、当然、落ちましたが、後で先生からごくろうさん
ケーキをもらい、せっかく期待をかけてもらったのに、合格
できなくて申し訳なく思ったことを覚えています。

*注1

本当は得意な「絵」を習いたかったのですが(友人が通っていた
お絵かき教室を見に行ったこともあります。先生が色鉛筆で描いた
外国人女性の絵(女優?)が妙に色っぽかったのが印象的でした。
ピアノはとにかく嫌いで、楽譜に絵ばかり描いていました。
ひたすら練習すれば指が10本同時に動くようになったのかも
しれませんが、無意識に動くというのがどうにも性に合わなくて、
そろばんの暗算もできるようにはなりませんでした。

中学校)

中学になると学習塾に加え、英会話学校に行き始めました。

英語で挫折した姉(塾の問題で分からない時、とてもお世話になりました)が
同じ苦労をしないようにと、神保町のYMCAに申し込んでくれました。
神保町駅から歩いたのですが、似たようなオフィスビルが多く、帰り道で
まんまと迷いました。寄り道せず、まっすぐ歩けば、何てことない
道なんですけど(汗)。

英語については小学校から通っていた塾が春休みに先行して少し教えて
くれていたのと、親戚の家にあった本「子どもに英語を教える」を
自分でも買っていたので(親戚の旦那さんは勉強家&教育熱心で、娘さんは
国立の小学校に通っていました。絶対音階も持っていて、私がわざと
ド以外の音から、ドレミファソラシドを弾いても、キーを当てることが
できました。「子どもに英語を教える」という本は、単語の絵と
発音記号、舌の位置の図がとても充実していて、オーディオ装置が無くても
かなりネイティブに近い発音が自習できる、当時としてはとても
画期的な本でした。小学校高学年頃には「セサミ・ストリート」の放送も
始まっていたので、発音が修正できたのも良かったかもしれません)、
アドバンテージがあり、いきなり英会話学校で外国人教師に英語で
話しかけられる授業であっても、特に臆することはありませんでした。
ただ、通っていた生徒が、白百合や学習院などの私立校の子女が多く、
先生に「好きな食べ物は?」と質問された時、自分は「江戸前ずし」と
答えたのに対して、「私の母が作ったシチュー」と答えたのを聞いて、
「お嬢様の答え」というのはこういうものなのか! といたく感心した
ことを覚えています(*注2)。

YMCAの英語のテキストはメインが教科書でした。たまたま中学で使っているのと
同じ会社の教科書でしたが、三省堂書店で売っているので、買うようにと
指示されていたので、もう1冊買いに行きました。この時初めて、英語に限らず、
「教科書というものは自分で買うことができる」のだ、と知りました。

YMCAに通ったメリットは他にもあり、日本が世界に誇る「本の街神保町」に
定期的にアクセスできるようになったことが一番でした。

実は中学に上がると、数学がいきなり分からなくなりました。そうです。
鶴亀算に慣れすぎて、抽象的な「連立方程式」がすぐに飲み込めなかった
のです。かなり落ち込みました。そんな時、神保町の古本屋で、自己啓発本に
出会ったのです。加藤諦三。読んだら、俄然、気分が上向きになり、
連立方程式を克服することができました。思春期はちょっとしたことで、
景色が変わるものなのですね。

神保町では、書泉グランデという書店のカバーと栞がとにかく素敵で、それが
欲しくて、5文型と基本構文の例文だけが載っている厚さ2ミリくらいの
超薄い英語の参考書を買いました。例文が少なかったので、すぐに覚えてしまい
ましたが、これが後々、非常に役に立ちました。後に駿台の伊藤先生の700選を
勧められ、使ってみたのですが、英語の実力がさほど伸びた感じはしません
でした(*注3)。

小学校から通っていた塾の先生から聞いたのか、YMCAの先生から聞いたのか、
どうだったのか思い出せないのですが、英単語を語源で覚えると良いという
話を聞き、丸暗記が苦手な自分は、目から鱗な衝撃を受け、早速神保町の書店で
語源の本を探したところ、ハンディな語源辞典を発見しました。辞書ほど分厚く
なく、頑張れば読み通せるくらいのボリュームがちょうど良く、これでかなり
ボキャブラリーを増やすことができました。

さらに仮説実験授業を行っていた東大出の中学の理科の講師の先生が、
夏休みに何人かの生徒を自宅に呼んで勉強を見てくれることになり、
全科目の勉強法を教えてもらったのですが、英語については、対訳本を
読むと良いと言われ、早速神保町で対訳本を数冊、購入しました。
左の英文を読んでいき、分からなくなったら、右側の日本語訳を読む。この
繰り返しで、大量の英文を読むことができ、楽しみながら長文(しかも名文!)を
読むことに慣れていきました。最近はあまり対訳本を見かけなくなりましたが、
格調高い名作に気軽に触れられなくなったのではないかと残念に思います(*注4)。

*注2

ちなみに母親は家事があまり好きではなく、私の子どもの頃は二人の姉が
料理を作ってくれていました。中学の頃には二人とも結婚して、家を出て
しまったので私が夕飯を作っていました。餃子の作り方は自宅にあった
百科事典で知りました(使用人が正月に帰省してもいいように、作り置き
したのが起源だそうで、いわゆる「つくおき」レシピの元祖ですな)。
理科の先生が「英文レシピで料理を作れば英語の勉強にもなる」と
言ってくれましたが、さすがにそこまではやりませんでした(笑)。

*注3

ビジュアル英文解釈の教材はどれも面白かったです。これがきっかけで
ベンジャミン・フランクリンに興味を持ちました。英語の教科書もこのくらい
面白かったらよかったのに。

*注4

村上春樹の翻訳小説をどこかの出版社が対訳本にしてくれないでしょうかね。
それか波多野完治訳の十五少年漂流記とか。英文が名文なら、日本語訳も名文で
読みたいですよね。

高校

高校の化学の授業はかなり型破りでした。いきなり、大学入試の問題のプリントが
配られ、それを解かされるのです。何も教えてもらっていないのに。とにかく、
何か書かなければと、自分なりに答えをひねり出しました。実は、中学時代、
姉が残していた高校の化学の教科書を何とはなしに読んでいて、モルの計算や
化学式など、全く分からないわけではなかったのです。

その点数が良かったらしく、化学の先生が担任だったこともあり、親不在の3者面談で
「君は東大を受けろ」と言われてしまいました。2科目満点なら入れるから、という
よく分からない伝説を教えられましたが、当時の自分が通っていた都立高校は、
1つ上の学年で、推薦が決まっていた女子が記念で受けて、合格して、泣く泣く
辞退したのが唯一の合格者というくらいのレベル。まず無理っしょ、と冗談半分に
思っていました。

その後もプリントによる化学の授業は続き、大半の生徒が脱落していきました。
私はというと、これ以上学ぶこともなくなってきてしまったので、岩波の
理化学辞典を古本屋で買い、解けなかった問題があると辞典で調べる、を
繰り返しました。得意ではあるものの、もっと上のレベル、例えば
大学レベルの勉強するほど、化学が好きではなかったので、入試問題が
解ければそれで良かったのです。

小学校から通っていた塾は中学までで、高校は「駿台に行くように」と言われ、
通うことになりましたが、講師の質はお世辞にも高いとは言えませんでした。
でも神保町に行くのは好きなので、惰性で通っていました。薄い英文集本と対訳
名作本と語源辞典のおかげか、英語の模試の成績は良く、よく名前が張り出されて
いたので、英語で苦労することはありませんでした。都立高校の英語の先生ほうが
よっぽど質が高かったのですが、その先生から衝撃の事実を知ります。

先生の息子さんは開成高校に通っていて、英語の先生の息子なのに、数学が得意で、
独学でどんどん勉強し、高校までの数学を早々に終えてしまったそうなのです。

化学や英語は、自分で先取り学習をしていたくせに、なぜか数学は先取り学習
してはいけないのではないか、予習より復習をしっかりすべきではないかと
思いこんでいた自分はショックを受けました。

高2の夏休み。「大学への数学」という研文書院の参考書で2学期の数学をまとめて
予習したところ、かなり余裕ができました。

鶴亀算がいい例ですが、中学受験独特の算数に深入りせず、早くから連立方程式を
勉強しておけば、中学受験問題が簡単に解けるように、数学は先に進むと、以前の
レベルの問題がいとも簡単に解けるようになるものなのです。

それからはひたすら3学期の数学を早く終わらせました。

とはいえ今のペースでは、高3までに、数IIIを受験レベルにもっていくことは
難しい、ということが分かってきました。

東大の数学は6問。このうち4問完答を目指し、数IIIの微積は捨てることにしました。

証明や確率、数列などは難問も解ける自信があったので、雑誌「大学への数学」の学コンも
4問なら名前が載るレベルに達しました。

英語、化学、数学4問のおかげで東大の理IIに無事現役合格することができました。

中学時代、連立方程式が分からないレベルだったのですから、人生、分からないものですね。

大学

当時の大学の教科書はどれもそう面白いものではありませんでした。そんな中、唯一、
コンピュータ授業の教科書だけは読み始めたら、一気に最後まで読み終えてしまいました。
いきなり授業でサブルーチンから書き始めたのを見た先輩に驚かれたので、「教科書を
読んでいたので」と答えたところ、「普通読まないよ」と言われてしまい、「ああ、
そういうものなのか」と思ったものでした。

結局、それがきっかけで最初に就職した会社にはシステム・エンジニアとして入社したので、
向いていたんだと思います。

セツ・モードセミナー

社会人4年目にセツ・モードセミナーの夜間部に入学しました。大学時代に洋裁の
面白さに目覚め、セツ先生のエッセーに感動し、ファッションを極めたいと思ったのです。
ファッション科に入るにはまず、必修のモード科を卒業しなければいけません。
入学試験がない自由な専門学校だったセツ・モードセミナーは先着順に申し込むため、
早くから並びました。入学するとまずゼッサンの試験?があり、一斉に石膏像を書き、
合格と言われた順に帰宅できるという方式でした。生徒の中にはすでにプロの
イラストレーターの方もいて、手慣れた筆運びでさっさと帰宅を許され、私も高校の
時、まるまる1学期ゼッサンだけを描くという美術の授業を受けていたので、
最初の帰宅グループに入ることができました。

私が小学校の頃、NHKでレオナルド・ダ・ヴィンチの生涯」というドラマが放送され、
家族で楽しく見ていました。ダ・ヴィンチのデッサン画の中に手を描いた1枚があり、
それが記憶に残っていました。

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中学の美術の授業で、手のブロンズ像を作るという課題があり、最初に自分の手を
模写する段階で、ダ・ヴィンチのデッサンを思い出し、光と影の描写で自分の拳を
描いたところ、クラスメートからは「毛だらけの手だ」とからかわれたものの、
美術の先生から大絶賛されてしまい、「特に絵を習っていたわけではありませんが、
ダ・ヴィンチのドラマに出てきた絵を真似したまでです」と弁明しました。

小学校の頃、家の見取り図を描き、それを立体にする課題があったのですが、その時の
椅子も家にあった「家庭画報」に載っていたミッドセンチュリー頃のプラスチック成形の
デザイナーズチェアを真似して作ったところ、めちゃくちゃ褒められたことがあり、
「一から創造したわけではないのに……」と後ろめたく思った記憶が蘇りました。

前に中学の理科の先生に全教科の学習方法を教えてもらったと書きましたが、美術に関しては
徹底的な模写(*注5)だと言われました。デッサンは個性も何もないので、その方法で格段に
うまくなります。古本街で「別冊アトリエ」という美術雑誌のデッサンの描き方ムックを
見つけてきて、描き方を学ぶのではなく、掲載されていたデッサン画を模写し、デッサンの
描き方のコツを習得しました。

当時の高校の美術の最初の授業は、1学期の間毎週、ひたすらマルクス・ウィプサニウス・
アグリッパ
の胸像だけを描かせ、デッサンが狂っている生徒がいると、持っている布切れで
バサーッと消してしまうというスパルタぶりでした。反面、デッサンで有望な生徒がいると、
放課後にデッサンの補習を行い、さらに近くの美術学校(すいどーばた美術学院など)にも
通わせ、芸大受験をさせるという熱心な先生でもありました。親が画家だという同級生も
誘われていましたが、結局は彼も東大に入学したので、芸大受験を目指す人は「将来
絶対にアートでやっていく!」という強い動機が必要なのでしょう。何かを真似して
そこそこできてしまう自分では、美大に進学したところで、どこかで行き詰まっていた
のではなかったかと思われます。

アグリッパ胸像
*注5

音楽に関しても徹底的な模倣が上達の早道だそうで、この理科の先生はピアノも上手く
(音楽の試験官だった時、試験問題のヴィヴァルディの「春」の楽譜が間違っていると、
突然、黒板に暗譜している楽譜を書き出したのには度肝を抜かれました)、気に入った
演奏家のレコードを聴いて真似をし、来日公演のリアル演奏を聞いて、さらに修正した
そうです。まあ、確かにそれができれば上手になるでしょうね。ただし、一般人にとっては
一曲を通しで弾けるようになるまでが、そもそも大変なんですけど……。